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by 企画制作会社セブンデイズウォー代表取締役、クイズ専門誌『QUIZ JAPAN』編集長、クイズ作家の大門弘樹

『シン・ゴジラ』を日本人が観なければならない理由

ここ数十年の中でも飛び抜けて傑作と思われるシン・ゴジラ

エヴァンゲリオン』の庵野秀明が総監督を務め、ひょっとしたら『エヴァ』以上の名声を得たかもしれない本作。

今回は、そんな話題沸騰のシン・ゴジラをネタバレ最小限に抑えつつ、語りたいと思います。

そもそも、シン・ゴジラの公開前に、ここまで話題を呼ぶとは正直、多くの人は思ってなかったでしょう。

むしろ「コケる」「失敗する」という予想の方が圧倒的に多かった。

は、なぜシン・ゴジラはここまで観る者に衝撃を与えたのでしょうか。


その理由は「期待値が低かったから」にほかなりません。

この場合の「期待値」とは庵野秀明総監督に対する期待値というより、むしろ「ゴジラ」に対する期待値です。


もっとはっきり言えばゴジラが現代に通用するコンテンツとして復活できるとは、思われていなかったから」とまで言ってしまっていいと思います。

この辺りの分析から進めていきたいと思います。

ゴジラとは何か。

原爆によって生み出された、反核をテーマに背負った怪獣です。

反核というメッセージは、広島・長崎の原爆投下がまだ記憶に新しく、水爆実験による第五福竜丸の被爆という事件が大きな社会問題となっていた『ゴジラ』第1作の当時の世相を大きく反映しています。

怪獣映画というジャンルムービーとしての完成度なら、後のキングコング対ゴジラ』モスラゴジラ、平成のゴジラVSビオランテなど高く評価されている作品もありますが、ゴジラ反核という本質的な存在意義を持ち得たのは、第1作だけでした。

つまりゴジラは、己の存在意義を透明化し、「怪獣王」というキャラクターに記号化されることで「シリーズ映画」として量産されていく道を選びました。

しかし、それは逆に放射能を武器に戦う怪獣」という、ある意味、真逆のキャラクターに変質したとも言えるわけです。

時代の経過とともに希薄化する核の恐怖は、そのままゴジラというキャラクターのメッセージ性の希薄化を生んだのです。

実は『ゴジラ』シリーズとは、反核をテーマにした第1作と、怪獣映画というジャンルムービーを生んだ2作目(ゴジラの逆襲)以降で、作品の色合いが大きく異なるという歴史を持ちます。

ちなみに、長らく「怪獣プロレス」を揶揄されてきた『ゴジラ』シリーズを復活させた「中興の祖」であるゴジラVSビオランテ(1989年)は、遺伝子操作に対する警鐘を鳴らした骨太なストーリーで高い人気を誇ります。

ジラ復活の成否を握る大きなファクターの一つが、「反核」、もしくはさらに拡大して「科学への警鐘」というメッセージをどう盛り込むのかにあるといっても過言ではないのです。

そういう意味では、原水爆への恐怖が希薄化し、『ゴジラ』シリーズが明確に描くテーマを失っていた2000年代前半に、シリーズを凍結するに至ったのは非常に象徴的といえると思います。

「ミレニアム」シリーズと呼ばれるこの頃の作品群では、ゴジラには、ただ強敵と対決する役割を与えられるのみで、残念ながら「怪獣プロレス」と揶揄された昭和の路線の縮小再生産と言わざるを得ないものでした(個人的にはGMKも機龍もファイナルウォーズも好きですよ)。

ところが、大半の日本人が核の恐怖を「歴史上の出来事」だと思っていた2011年に大事件が起こりました。

東日本大震災と、それに伴って発生した福島第一原発事故す。

シン・ゴジラ』は明確にこの2つを下敷きに物語が作られていることがわかりますが、特に大きかったのは福島原発の事故です。

漠然としたイメージしかなかった「放射能」がどういうものか、日本人が(不幸なことに)体験することになりました。

ものすごく乱暴な言い方をすると、放射能を吐く怪獣のバトルを出演者たちが見守る」という『ゴジラ』シリーズの図式が全て絵空事であると気づかれてしまったのです。

放射能怪獣が東京を襲うなら、「東京にホットスポットができる」「避難をする近隣住民はマスクを着用する」「東京の住人は除染の対象となる」「ゴジラに近づくには被爆覚悟でタイベックスーツを着なければいけない」etc……という表現をしなければ、ウソになるわけです。

つまり311以前と以後では、ゴジラという存在の描き方を変えざるを得なかった。
ここに真摯に向き合ったのが、庵野・樋口両氏であったのです。

一方、2014年に公開されたギャレス・エドワーズ版『ゴジラは、その点は非常に曖昧です。

前半にタイベックスーツを着た登場人物が原発事故に巻き込まれるシーンがあるため、一見、放射能をリアルに描いているように見えますが、後半ではゴジラがそれまでの日本版と変わらぬ表現で放射能火炎を吐き、主人公を含む米軍は至近距離でそれを目撃します。

ましてやロスの沿岸数キロで核兵器を炸裂させても、ロスが被爆した描写はありません。

そのご都合主義な描写は、むしろ日本のそれまでの『ゴジラ』シリーズの忠実なコピーのように感じました。

言うなれば、日本の怪獣対決路線を『アベンジャーズ』のような現代的な外連味でリブートさせたのが、ギャレス版『ゴジラ』だったのです。

ひょっとしたら日本の国土の半分が失われるかもしれなかった福島原発事故。

それを回避するために、全国民の協力のもと節電が行われ、名も知らぬ民間人や消防隊員が決死隊として原子炉の冷却のために福島に駆け付けたあの時、現実がSFや特撮映画を凌駕してしまったのです。

核のメタファーだったゴジラを、コントロール不可能となった現実の原発が上回ってしまった。

上回ってしまったからこそ、『ゴジラ』に新たなモチーフが生まれたのです。

ここからネタバレです。

(未見の方はご注意ください!!)



なぜ最後にゴジラに挑むのが自衛隊と「民間協力企業」なのか。

最後の要となる重機がクレーン車やポンプ車なのか。

全て実際の原発事故をすんでのところで救った日本人への賛歌だからでしょう。

さらに言えば、「ヤシオリ作戦」には、あの時、樋口監督がツイッターで節電を呼びかけ、(少なくともネット上では)日本人が日本を救おうと気持ちを一つにした体験がベースとなっている気がします。

そして、ゴジラは凍結することはできたとしても、いつまた活動を始めるかわからないというエンディング。

あれも冷却により無理やり収束させた福島原発の現状を見事に暗喩しています。

シン・ゴジラとは、ゴジラが第1作以来なくしてしまった反・原水爆というメッセージを、311以後の日本人にとっての原発事故として再解釈して描いた映画だったと言えます。

スタッフ・キャストは誰もそのことを明言はしません。

でも、明言しなくても、そこに「知っている光景」が展開されることで、5年前に感じた感情が甦る仕掛けが施されているのです。

とはいえ、庵野総監督は別に「福島原発事故に対する問題提起をするためにこの映画を作った」のではなく、あくまで「2016年のいま、ゴジラを逃げずに描くとするとこうせざるをえない」ということだと思います。

ゴジラを使って社会問題を描く」のが目的ではなく、「ゴジラを描くために社会問題を織り込む必要があった」。

ここを読み間違うと、本末転倒になるので注意したい。

同じく全面に醸し出される『エヴァ』のテイストや鷺巣サウンドについても同じ。
エヴァ』の実写版がやりたいのではなく、ゴジラを描く上で庵野総監督が培ったおなじみの演出法が最適解だったということです(鷺巣氏の言葉を借りるなら「名人将棋のごとく庵野総監督の大局観」)。

ジョン・ウーがスローモーションで鳩を飛ばすのと同じです。

もう1つだけ最後に。

現代の日本の切り取り方として白眉だったのは、避難を強いられる市民にお年寄りが非常に多かったこと。

これも一般的な怪獣映画の場合、エキストラや特撮ファンを集めて撮影するため、必然的に30〜40代が大半でステレオタイプになりがち。

今回はカットによってはエキストラ1人1人に役割や設定を割り振って撮影されたという話もあり、非常に効果的なカットに老人が登場するように計算されていました。

特に、逃げ遅れた老夫婦(しかも足が悪いお婆さんをお爺さんが背負う老老介護というのが実にリアル!)を前に総理大臣が自衛隊ヘリの発砲許可を取り下げるというシーンは必見。

怪獣に対する発砲とはいえ「人口密集地における自衛隊による火器使用とはどういうことなのか」を端的に表現している上、実は攻撃そのもの以上に、段取りの描写が肝であることを庵野総監督は証明してみせたわけです。

そうした計算されつくした演出も満載なのですが、やはり第1作に匹敵するテーマが表現されていることが『シン・ゴジラ』が恐るべき傑作である所以だと思います。

それは怪獣映画や特撮・SF映画の範疇すら超えています。

国内で原発事故を経た「第二の戦後」を切り取ったモニュメンタリーとして、今、日本人が観るべき映画。『シン・ゴジラ』は間違いなくそう言えると思います。

未見の方はぜひ劇場で観てほしいです。